【を:愚かしいのは、私一人】8:57 2007/10/21
「オマエは僕が居なくても平気だろう?」
そう言って私の前に現れなくなったのは3年前のこと。
それ以来私がどんなに会いに行っても彼は姿どころか声すら聞かせてはもらえない。
最初の頃は何度も事務所に押しかけたものの、彼の娘か或いは彼自身のメモによって私は渋々帰らざるをえない事態になり、そして。
諦めた、と言っては語弊があるのかもしれないが、私は彼に会おうと試みることを止めた。
付き合っていたときはどんなに押しかけても笑顔で出迎えてくれたし、むしろあちらの方から訪問してくることも少なくなかった。
私たちは判例や現在の法律などの小難しい話から真宵クンのラーメン屋での武勇伝などの馬鹿馬鹿しい話までそれは様々な会話を繰り返した。
繰り返して、結局。
私はあの時、幾度目かの海外研修へと出ていた。
それは現在の立場での最後の研修であり、それさえ終われば暫くは日本国内での仕事に戻るはずだった。戻れるはずだった。
『ゴメンな』
帰国寸前に飛び込んできた電話はそんな一言だけで、私は何が何だか分からずにただ混乱を繰り返すばかりだった。
成歩堂のあの裁判については研修中に聞いていたし、その結果についても私はほぼ全てを把握していた。
その上で、彼は決して屈しまいと今から考えれば些か楽観的過ぎるほどに考え、成歩堂に電話を掛けた。
耳元で鳴り響く発信音は、コールを繰り返して留守電に切り替わる。
その時に感じた違和感を信じれば良かったのかもしれない。
ほぼ毎日のように電話を掛けて、留守電にメッセージを吹き込んだ。返事が無くともただただ繰り返した。私はただ彼の恋人である、というただ一点のみに縋りついていたのかもしれない。
それは帰国寸前の空港ロビーでのこと。
発信を告げた携帯電話の名前は紛れもなく彼の名前で。
慌てて受信ボタンを押して、耳元に当てると彼の声が耳殻を廻る。
「ゴメン、僕だよ。悪かったな、電話取れなくてさ」
「そんなことはどうでもいい。私も今から帰国する。何か手伝えることがあれば――」
「御剣」
溢れ出る言葉をただ一言で止められて、私はグッと息を詰める。
何に対して謝ってるのだと問質そうと口を開いたその時に成歩堂は言った。
「ゴメン、な」
ぽつりと洩れるソレは酷く辛そうな声音を以って、虚空に消えた。
それから3年。
もう、3年も経つのだ。
諦めたはずなのに私の心を苛む棘はますます増えていくように思う。何気ない日常が怖かった。成歩堂が居ないことに慣れていく自分が怖かった。
見なくなった悪夢が戻ってきた。
夜中に飛び起きて、居ないはずの隣の温もりを求めた。
求めて、居ないことに気付いて。
気付いて、叫んで。
このままでは狂ってしまうのかもしれない。
彼は私にこう言った。
『オマエは僕が居なくても平気だろう?』
冷たい声音が胸を刺す。流れていた血潮はいつの間にか絶えた。開いた風穴はひゅうひゅうと音を立てる。ぐずぐずに膿んだ傷のように鈍い痛みは常に消えない。
キミはこんな私を知らない。
知らなくて良い。
こんなに自分が弱いとは思わなかった。失う怖さを知らないわけではなかったのに、大丈夫だと自分に嘘を吐いて。
「その結果がコレか・・・・・・」
涙はとっくに涸れていた。声も酷く嗄れていた。心は最早枯れていた。
仕事に打ち込むことで私は痛みを誤魔化した。
絶えぬ痛みに一人向き合うよりも、悲惨な事件に目を向けるほうが余程楽だった。
夜は眠れないから、持ち帰った書類に目を通した。食欲がないからサプリメントで補給した。生きてるだけの機能が働いていればいい。余計なことなど考える暇はいらない。
かつての。疑惑があった頃よりも、私は更に働いていた。
ただただ、働いて実務をこなすだけだった。
「御剣検事、少しは休んだほうが良いッス。目の下が真っ黒ッスよ」
心配した刑事が私にそう言った。
局内の他の職員にも同じことを言われた。見かねた事務官が仕事を持ってくるのを止めた。上司に休みを取れと言われた。
それでも私は無理矢理仕事を作り出して、ソレに打ち込んでいた。
そうでもしなければ己を保つことが出来なかった。
「馬鹿ね。本当に馬鹿だわ。馬鹿の見本のようよ、レイジ」
「メイ?」
「そんなにあの男が好きなら、身を引くべきじゃなかったのよ」
「しかし成歩堂が」
「しかしもだからもないわ。貴方、人を心配してる暇があるのなら自分の心配でもしなさい」
バンッ、と机を叩く音が執務室に響く。
目の前にいる姉弟子は酷く憤慨して、私をジッと睨みつけていた。
「本当に迷惑よ。レイジ、自分がどんな立場に居るのかちゃんと理解しなさい」
「それは分かっている」
「解ってないわよ。解ってたら、局内が貴方一人のせいでどれほど停滞してるか理解してるはずでしょ」
「私は」
「黙りなさい」
冥は手鏡を目の前に突き出した。映っているのは当然、私の顔だ。私の顔のはずだった。
「ヒドイな」
「当たり前よ。不眠不休の耐久レースじゃないのよ。身体が資本の仕事でそこまで自分を追い詰めてどうするつもりなの?」
削げた頬が影を作り、目の下は黒く染まっている。充血した眼球が伸びた髪の下で不安げに揺れていた。これは私ではない。別の誰かに違いない。それでも鏡が映すのは私自身で、そこまで自分を追い詰めていたのかと思うと動悸が激しくなって、胸に疼痛が走る。
「・・・・・・返す言葉も無い」
「だったら。そんな言い訳も出来ないくらいなら、あの男と大人しくヨリを戻しなさい。いい? コレはお願いじゃないの。命令よ」
「メイ・・・・・・」
「私は、これ以上、貴方が壊れるのを見たくないの」
冥はただその一言を残して、執務室を後にした。
取り残された私は、まだ鏡を持ったまま動くことが出来なかった。
気付けば私はかつての成歩堂法律事務所――今は成歩堂なんでも事務所になっている――の前に立っていた。
冥の言葉に突き動かされたようにフラフラと足が勝手に動いたようだった。階段の前で私は昇ることも出来ず、立ち竦んでいた。言葉も何も用意せず、ただ赴いただけだったからだ。
私は彼に会って、なんと言いたいのだろう。
私は彼に何を強いるのだろう。
彼は私など求めてはいない。
私ばかりが縋りついたところで、一体何になるだろう。
ゆらりと視界が歪んだ。足から力が抜けて尻餅を付く。
ポタポタと雫が地面を濡らしているのが見えた。頬がやけに冷たかった。触れてみると己が泣いてるのだと気付いた。咽喉の奥から堪えきれぬ嗚咽が洩れた。涸れたと思った涙だった。
「み・・・つる・・・・・・ぎ?」
聞きなれた声だった。
違えようも無く、彼の声だった。
私は顔を上げて、彼を見た。
見覚えのない姿だった。
それでも彼は彼だった。
「・・・なる・・・ほど・・・・・・う・・・」
名前を呼んだつもりだったのが、嗚咽に掻き消されてしまう。
それでも私は呼び続けた。彼の、成歩堂の名前を呼び続けた。
力の入らない足を無理矢理動かして、彼の胸に飛び込んだ。
鼻腔に広がる彼の匂いに安堵して、途絶えた涙がまた流れた。
「成歩堂。成歩堂。なるほどうッ」
「何で・・・オマエが居るんだよ・・・・・・」
だらりと下がった腕が憎らしかった。
その手に持っているパーカーさえ憎らしかった。
有り得ない、と言ったその口ぶりが憎らしかった。
何もかも、憎悪した。
「何でッ、オマエがココに居るんだよッ」
叫ぶ声音は悲痛を湛えており、私の胸が少し晴れた。
もっともっと悲嘆にくれればいいのだ。
苦しめばいい。私の苦しみの断片だけでも分かてばいい。
「だって・・・オマエは・・・・・・僕が居なくても・・・・・・・・」
縋りついた胸から顔を離して、私は彼の眼を見据えた。
ゆらゆらと揺れる黒目がちの眸が私だけを映していた。
「成歩堂」
名前を呼ぶと、ビクリと慄いた。
私を恐れて、怯えて、縋りつけばいいのに。
恐怖と疑念の入り混じった表情が私に愉悦と余裕を与えた。
頬の筋肉が引きつるのが自分でも分かった。けれど、笑いを抑えることは出来ない。
「成歩堂」
私はただ渇していた。酷く渇していた。
噛み付くように私は彼の唇を求め、唇をこじ開けて舌を絡めた。
ただむしゃぶりついた。
人目など気にならなかった。誰が見ようと構わなかった。
私はこれほどまでに彼を求めていたのだと気付き、今更ながらに己を哂った。
キミはこんな私を知らない。
知らなかったはずだ。
私は知らずにキミにまで虚勢を張っていたのだろう。
だから知らない。これほどまでに弱い私を知らない。
「キミはこれでも私が一人で生きていけると言うつもりか?」
知ってほしい。
キミが居なければ私は生きていく意味を失ってしまうことを。
知ってほしい。
キミが居なければこんなにも残酷になれることを。
知り尽くしてほしい。
私がキミのために生きていることを。
※【わ:我儘と知っててなお】と対。こっちは御剣さんver。うう、書いてて胸が痛い。御剣さんは我慢して我慢して我慢しすぎてぶっ倒れるタイプです。拙宅の御剣さんはなるほど君が支えてる部分が結構デカイので、居なくなるとココまで凹みます。緩慢な自殺ですよ、コレ。