【022:コーヒーカップ】12:36 2007/10/07
その真っ白なカップに浮かぶ漆黒の闇色。
ゆらりゆらりと揺らいでいくのは、過去の名残。
父はコーヒーを好んで飲んでいた。
お気に入りのマグカップにソーサーをセットして、挽き立ての豆をフィルター越しにコポコポとお湯を注いで作る。ケトルからお湯を注ぐごとにふわりふわりと香気が舞って、私はそれを好んで見ていた。飲ませて欲しいとねだる度に少し困ったような顔をして、眠れなくなってしまうからこちらにしておきなさい、とココアを作ってくれるのだ。
真っ白なマグカップに漆黒のコーヒー。
ゆらりゆらりと水面が揺れて、外の景色を映し出す。
そういえば父はコーヒーはブラックを好んでいた。この方が香りを楽しめると好んで飲んでいた。
何故今頃、そんなことを思い出すのだろう。
私はコーヒーなど飲まないのに。
冥もコーヒーを飲まない。
彼女は私と一緒だ。主に紅茶を嗜好する。
ティーキャニスターから取って置きの茶葉を取り出し、私にも振舞ってくれる。今日の茶菓子はスコーンだと、クロテッドクリームを脇に添えながら彼女が言った。
ホテル・バンドーのティーサービスが何故か検事局まで足を運んでくれる理由は主に彼女と私であるということは隣の警察局まで知れ渡っている。その為か物怖じしない糸鋸刑事は時折貴重な食料源を得るために一緒にお茶をすることも少なくない。
「美味いッス。このビスケットのでかいヤツが途方も無く美味いッス」
「ヒゲ。紅茶は飲まないつもり?」
「そ、そそそそんなことはないッス。いただくッス。美味いッス」
「気のせいかしら。さっきより言葉が少ない気がするわね」
「ううう、自分は日本茶しか飲まないッスから」
普段はムチが飛び出す場面もやはり時を弁えてるからか幾分穏やかな口調ではある。
日常の煩瑣な時を忘れる一瞬。
冥はほんの僅かに笑って、ティーカップを傾けた。
ゴドー検事は肌身離さずマグカップを携えている。
審理中にも欠かさないから、何となく気になって何度か諌めたことがある。
その度に彼はこう言うのだ。
「これはオレにとってのお守りみたいなもんさ。アンタみたいな坊やにゃ分からないかもしれないが」
かつての苦い思い出を忘れぬために彼はコーヒーを飲むのだという。
幾度もその味を舌に感じて、記憶を呼び覚まして。
彼はどれほどの屈辱を味わったのだというのだろう。
矢張という男は雑食なようでいて、案外舌が肥えている。
レストランや居酒屋でのバイトが多いから美味いものを結構食うんだ、という理由らしい。相変わらずフザケた男だと思いながら、矢張らしいとも思える。飲み物にコダワリはないらしく、紅茶だろうがコーヒーだろうがアルコールだろうがその日の気分で変えるそうだ。
「いやー、コンビニの入れ換えが早くてよ。オレって新商品とか好きだし」
そう言いながら、今日も新商品のポップが張られたコーヒーを手に取った。
「最近の缶コーヒーも案外イケるもんだぜ、御剣」
飲んでみろよ、とカラカラ笑いながら矢張はレジへと歩いていった。
成歩堂はどうだろう。
彼が何かを飲んでいる姿というのを私はあまり目にしない。
いや、多分飲んではいるのだろうが大体の場合において、助手である少女が適当に買ってきた飲み物をおざなりに飲んでいるという姿しか見かけないだけなのだ。
好きなものはアレだとかコレが好きなんだという台詞は一切無く、その場にあるものを食べて飲んでいる。
「成歩堂」
「うん?」
「キミは食べる物に執着が無いのか?」
「へ?」
「いや、あまりキミは好みを言わないではないか」
「え、ああ。そういうことか」
うーん、と腕を組んで考え込む姿はいつもと変わらない。
「好き嫌いとかないしなあ」
「嗜好品とか無いのか?」
成歩堂はきょとんとした目でこちらを見ながら、持っていた書類から手を離した。
「っていうか、何でそんなこと聞くの?」
「うム、気になることは解決しないと気持ちが悪くてな」
「へえ」
ぎい、とイスが軋み、足がぶつかったのか机の上のマグカップがカタンと揺れる。成歩堂が立ち上がって机を回りこみ、ソファに座った。
「ああ、疲れた」
「まだ終わらないのなら別に私のことなど気にしなくていいぞ」
「気になるように仕向けたのはオマエだろ」
ジッとこちらを見据える視線に負けて、私は読みかけの新聞を閉じた。
「何だ?」
「それはこっちのセリフ」
前かがみに頬杖を付きながら、それでもまだ見つめている。
観察されているようで少し居心地が悪い。
「何かあったの?」
真っ直ぐに射抜かれて私は思わず視線を逸らした。
どんなに隠し事をしていても簡単に見抜かれてしまう己を恥じる。
「何でもないのだよ。瑣末なことだ。忘れてくれ」
そう言うと、不満そうに片目だけを眇めてこちらを見やった。器用なことだ。
「何考えてるのさ」
「何でもないと言っている」
「そんな顔で言われても僕は納得できない」
「分からなくていい」
そもそも私自身だって理解してないのだから。
成歩堂が立ち上がって、マグカップを取った。咽喉が渇いたのだろう。
小さく舌打ちをしている所を見ると、中身が入っていなかったらしい。
苦虫を噛み潰したような表情のまま、成歩堂は給湯室へと消えた。
ガタガタと何かを動かす音と、笛付きケトルが鳴り響く。
暫くすると独特の香気が鼻腔に飛び込んできた。
どうやらコーヒーを入れてるようだ。
あくまでも香り高いソレはどうやらインスタントではないらしい。
その香りに刺激されるように私の記憶が蘇る。それは昔の、忘れていた些細な思い出。
「ああそうか」
ふと、思い当たる考えが霞みがかった脳裏を晴らす。
「私はキミの中に父を見ていたのかもしれない」
知れず、声に出ていた。
丁度戻ってきた成歩堂が顔を顰めて、不機嫌な声で言った。
「何のことだよ」
「いや、すまない。ただの独り言だ」
「僕はオマエのオヤジさんの代わりになる気は無いよ」
「そういう意味では無い」
「そういう意味だよ。無自覚なら余計タチ悪いよ、ソレ」
「ム」
口篭ると追い討ちをかけるように成歩堂が畳み掛ける。
「僕はオマエの父親なんかじゃない」
誰かと重ねないでくれ、とその目が言外に訴えている。
ツキン、と胸が痛くなり私は言葉に詰まった。
彼の言うとおり、私は彼を父の代わりにしていたのだろうか。
「そんなつもりは無い」
首を横に振りながら、酷く不機嫌そうな彼に答える。
「誤解させたのなら謝る」
「いいよ、別に」
そっぽ向いたままコーヒーを啜る彼に私は猶も言葉を重ねた。
「私にとってはキミという人間は特別なのだ」
ソファから立ち上がって、彼の傍に歩み寄った。
ちらりとこちらを見やる目には困惑が潜んでいる。
「キミの中に父を見出してるのではない。全く逆だ。私は、父との思い出でさえキミを思い出すのだよ」
「御剣」
何だ、と答えるより先に腕を引かれ、そのまま抱きしめられた。
片手に持ったままのマグカップの中でコーヒーがゆらゆらと揺れている。
「成歩堂、コーヒーが」
「どうだっていいよ」
「しかし」
「いいんだ」
回された腕にギュッと力が込められる。
「好きだよ」
「何を今更」
耳元で囁かれ、くすぐったさのあまり身を捩った。
普段は決して聞けない低音の響きが耳殻を廻り、脳へと伝う。
好きだ、ともう一度成歩堂が言った。
「馬鹿者」
熱が集まっていく顔を隠すように私は彼の肩口に頭を埋める。
鼻腔にコーヒーと入り混じった彼の臭いが飛び込んで、余計に熱が増していくような気がした。
※なるほど君が拗ねました。そのせいで大幅に話の流れがずれました。勝手にやってろバカップルになりました。さすがナルミツ。書いてる本人が予測できません。というか、プロットくらい組め。