【078:未必】4:46 2007/11/03
それが果たして私自身の意思だったのかと問われれば、少し疑念を呈さねばならないのだけれども。
成歩堂が私に好きだと言って2週間が過ぎた。
あれが本気だったのかそれとも冗談だったのか分からないまま仕事に追われて2週間が過ぎた。抱えていた公判は大方目処が付き、執務室に溜まりっぱなしだった書類も何とか今日中に終わった。
連日出勤をしてくれた事務官に詫びの言葉を告げて、局を出たのが21時過ぎ。車を緩いスピードで走らせながら、成歩堂法律事務所の前に停めたのが22時前。そんな時間にもまだ残っているのかと私は眉を顰め、階段を一段一段昇っていく。
コツコツ、と乾いた音を立てながら踊り場を回り、残りの段を上りきって事務所の扉の前に立った。
少し逡巡したものの、思い切ってドアノブを捻る。キィ、と小さな軋みをあげるドアの隙間を抜けて室内に入る。ドアを出来る限り静かに閉めて私は小さく深呼吸をした。
助手の綾里真宵は流石に帰らせたようだった。暗い応接室には誰も居ない。代わりにぼんやりと所長室のドアから洩れる光源で辛うじて見える床をゆっくり進む。一歩、二歩。自分がどうしてこんなにコソコソと動いているのか分からなかったけれども、とにかく邪魔をしてはいけないような気がして静寂を守ろうと試みた。薄く開いたドアの向こうは酷く静かだった。それでも人の気配はして、時折ギイギイとイスが軋む音がした。ゆっくりとドアノブを握り、そのまま手前に引く。
きぃぃぃ、と。殊更響くようにドアが鳴った。
「うん? 真宵ちゃん、忘れ物でもした?」
フッと顔を上げた成歩堂がピタリと動きを止める。私は気にせずに中へ入り、パタンとドアを閉めた。
「あのさ、用があるんなら少しは喋れよ」
黙って立っていると、成歩堂がガリガリと頭を掻きながら呆れたような表情をする。困ったような溜息を吐いて、持っていたペンをくるりと回した。
パソコンのファンが回っている音だけが部屋の中に響いている。意を決して成歩堂の座る所長席へ脚を進めると、困惑した成歩堂の頬に手を当てて見下ろす。成歩堂は何も言わず、ただジッと見据えていた。男にしては大きめの黒目の中に己の影が映っている。
「返事を、するべきなのだろう?」
ハッと気付いたように成歩堂の眸が揺れた。同時に己の影も揺れる。
そのまま黙って頬を撫でていると成歩堂の手が動いて私の腕を掴んだ。そのまま強く引寄せられる。私はバランスを崩して机の上に肘を強かにぶつけた。顔を顰めたものの、成歩堂の視線は変わらない。
「御剣」
握られたままの腕が痛かった。非難を言いたかったのにその目に見据えられて思考が止まる。名前を呼ぶ成歩堂の声音は固く、問い詰めるような口振りだった。
「何、だろうか」
私は切れ切れに言葉を紡いで成歩堂の言葉を待つ。
法廷に居るときのような真摯な眼差しが私を射抜いた。言葉の真意を問うように深く私の中に入り込むような、眼差し。ぞくり、と肌が粟立ち、背筋に痺れが走る。脚に力が入らない。今、成歩堂が手を離せばその場に座り込んでしまうだろう。
考えるまでもなく、私は成歩堂が好きだった。
言われるまでもなく、私は成歩堂が好きなのだろう。
ただそれだけの事実を元にこの場所を訪れる己の愚かさを笑いながら、それでも衝動を止めることが出来ない。止める気もない。
カチカチと時計の秒針を刻む音がやけに大きく聞こえて自分が緊張していることを知る。今か今かと成歩堂の口から放たれる言葉を待っているのに、目の前の男はただ私を見つめているだけで、何も喋ろうとはしない。目の端に映るパソコンのディスプレイはいつの間にかスクリーンセーバーを起動して、リボン状のストライプがクルクルと回っていた。
※『未必の故意』・・・「認識のある過失」と時折混同される。正直、違いがよく分からない。とりあえず犯罪結果の実現は不確実なものの実現されるかもしれないことを考えた上で認容した場合を言うらしい。可愛い女の子が一人暮らしの男の家にノコノコ上がりこんでアレやソレなのが『未必の故意』、そのまま腹ボテになってしまったのが『認識のある過失』ですかね。どうなんだろう。やっぱりよく分からないです。