【030:エゴ】7:44 2007/07/04
目の前の男はひたすらに泣いている。
理由は分からないが、とにかく泣いている。
私は言いようのない気持ちになって、思わず声を掛けてやる。
「どうした?」
「――みつるぎ」
しゃくり上げながら、男はふらふらと私の胸元に頭を埋めた。
呻き声が篭って、唸っているようにも聞こえる。
立ったままではどうにもならない。
とにかく状況を聞こうと、ソファへ促した。
「成歩堂」
名を呼んでやると、ようやく顔を上げた。
泣きはらした赤い目と鼻水でぐしゃぐしゃなひどい顔になっている。
私はハンカチを取り出して、拭ってやった。
「とりあえず座れ。何があったんだ?」
ソファに座り込んでなお凭れかかる成歩堂に問いかける。
うう、と唸っているのは聞こえるが言葉にはならない。
多分、自分でも良く分かっていないのだろう、と私は諦めて溜息を吐いた。
カチコチと時計の音が鳴っている。
いつもならば助手の真宵クンやかつての依頼人などで騒がしいはずの室内だが、今日は不気味なほど静かだ。珍しいこともあるものだと思う。
だが他人が居れば彼は泣かないだろう。恐らく私が今日偶然この場所を訪れたことさえも後悔してるのかもしれない。きっと他人が思う彼の印象は常に笑っている姿だろう。情けなく笑っているか、ふてぶてしく笑ってるか。法廷ではそれこそそんな姿しか思い浮かばない。そういう、男だ。
室内の観葉植物が僅かに揺れている。窓から入る風に戦いでいるのだろう。
この場所で彼の上司は倒れたのだと思うとどうにも複雑な気持ちになってくる。
彼と自分が法廷で直接争った裁判だけに、特にそう思う。
あれからいつの間にか年月を重ねて、この事務所もそれなりに繁盛してきたし、己自身も足を運ぶことが多くなった。様々な事件を通して、自分は変わったのだと思う。
この男は――成歩堂はどう思っているのだろう。
聞いてみたかったが、それは今ではないような気もする。
見るとスーツの袖が色濃く濡れている。まだ、泣いてるのか。
とりあえず私は未だ泣き止まない成歩堂の背中をそっと撫でた。繰り返し、繰り返し撫でてやる。
小刻みに震えているのが手を介して伝わってくる。
愛しい、と思う。
私の膝に成歩堂は顔を伏せたままだ。私は背中を屈め、耳を彼の背中に当てる。伸ばされたままの手を握ると予想以上に、熱かった。
「なるほどう」
私は囁くように、それでも彼の耳には届くように呟く。
目を閉じると、鼓動だけが聴覚を埋めた。眠気を呼ぶような心音がいつもより早く打ち鳴らされる。
「もう、泣くな」
「………うん」
小さなくぐもった声が聞こえた。
呼吸を整えているのか、深く息を吐いている。
私は凭れていた背中から頭を退かし、彼を見た。
成歩堂は少し名残惜しそうに私の膝に頭を押し付けて、ようやく身体を起こす。
涙は止まっているようだったが、目は充血したままだ。誰が見ても泣いていたと分かってしまう。
「今日は休業だな」
「そうだね」
「あまり抱え込むな」
「うん……」
再び俯いた彼の頭を掴んで、自分の肩口に押し付けた。
強く、抱きしめてやる。
「苦しいよ、御剣」
「キミの情けない顔を見るよりマシだ」
「ヒドイなあ」
「私の方が辛くなってくるからな」
「ゴメン」
「気にするな」
彼が何故泣いていたかは聞かない。何かあったのだろうとは思ったが、彼が言い出すまでは私から問うことは止めた。多分、彼はそのまま自分の中でケリをつけて、いつも通りふてぶてしく笑うようになるだろう。
自分の弱さを知りながら、それでもなお耐えるのではなく撥ね返すしなやかさを持っている。真っ直ぐに前を見続けられる強さを持っている。
私はソレを羨ましいと思いながら、自分は真似できないことだと自嘲する。私は、自分の感情をひたすらに押し殺し、閉じ込めることしか出来ない。
だから。
彼が泣いている理由は分からないまでも、その苦しさだけは知っている。
私は少しだけ腕の力を緩めて、少しだけ身体を離した。
成歩堂は照れくさそうな笑みを浮かべている。私はフッと微笑んで、ゆっくりと唇を重ねた。
※キス大好きだな、この連中。泣いてるなるほど君に慰めるミッタン。