【007:タイミング】8:17 2007/07/03
ほんの少しタイミングがずれただけだ。
ほんの少し言葉が過ぎただけだ。
ほんの少し。
ここ暫く、成歩堂法律事務所を訪れていないことに気付く。
いや、そもそも成歩堂に会ってもいない。当然、助手の真宵クンにもだ。
仕事が忙しかったということもある。公判が重なっていないということもある。
しかし、一番の原因は自分が成歩堂という男を避けているということだと思い至る。きっかけは酒の席で、本人も酒のせいにしていた。
アレはただの気まぐれなのだし、成歩堂だとて鈍い男ではない。
だから忘れろと言ってくれ、自分も忘れようと努めてきたのだ。
気にしてるのは自分だけだ。
「馬鹿馬鹿しい」
私は机に積み重なった書類を乱暴に整え、脇に置く。
開きっぱなしのノートパソコンが既にスクリーンセーバー起動しているところを見ると、随分長い間放置してたようだ。
プライベートのことで仕事が進まないなど滅多にないことだ。
大きく溜息を吐いて、ギシリと椅子に凭れた。
思い出すと何故拒絶できなかったのかという一点に尽きる。
ひとつだけの矛盾が己の中でじわりと滲みて、無残に広がった。
瞼を閉じるとあの真剣な眼差しが脳裏に焼きついていて、酷く動揺する。
アレは、本気だったのか。
今更のように思い出して、今更のように反芻する。
トントン、と指が唇を叩く。触れたのはこの場所だ。そっと触れて、撫でられて、弄られて。ふと気付くと成歩堂とのキスを思い出してハッとした。
何を考えているのだ、私は。
余計な感情は要らない。余計な衝動は要らない。かつて、捨てたものが今になって再燃している。胸骨の奥が握り締められるような、そんな感覚が襲う。痛い。苦しい。息が出来ない。足りない。
「私は」
コンコン、と扉を叩く音がした。
「どうぞ」
「久しぶり、お邪魔するよ」
襟を正して渋面で迎えた来客は、他ならぬ成歩堂だった。
「成歩堂、何の用だ」
「ん、この前の答え聞かせてもらおうと思ってさ」
「答えたつもり、だが」
「答えてないよ」
彼にしては珍しく足音を高らかに響かせながら、室内を闊歩する。
バン、と机を叩かれるのを黙って見ていた。
「御剣、少なくとも僕に会わない理由にはなってない」
「仕事が忙しいだけだ」
「嘘つくなよ」
ちらり、と覗き見た書類は全て処理済で決済印が押されている。
そうだ。その通りだ。仕事など全て、終わっている。
「キミに、会いたくなかっただけだ」
私がポツリと呟くと、成歩堂は机に置いたままの腕をゆっくりと戻して頭を掻いた。戸惑っているような、困っているような。少なくとも怒っているような表情ではない。
「あのさ、御剣」
「何だろうか」
「オマエ、本当に嘘つくの下手だよな」
ピクリ、と眉を跳ね上げて答えに代えると、成歩堂は深く溜息を吐いて俯いた。
「鏡見てみろよ。モノスゴイ表情になってるぞ、その顔」
「ム」
成歩堂がぐるりと机を回り込んだ。手を伸ばせば届く距離まで近寄り、ピタリと立ち止まる。
「もう一度、言わせてくれないか?」
「戯言、だろう?」
「本気だよ」
私は距離を取ろうと足を動かすと、コツンと渇いた音が踵に当たる。
伸ばした手は壁に当たり、後退りは出来ない。
床を見るように俯いていると、成歩堂の手が伸びて顎を掴まれる。グイッと上げられて、正面から見据えられた。
「僕はキミが好きだ」
沈黙が埋め尽くす室内を成歩堂は笑顔で立っている。
私はひどく気分が優れないというのにどういうことかと睨みつける。
私は答えることも出来ずにただ口を動かしている。
本来なら飛び出すはずの罵声も悪口も声にならず、呼吸ですら儘ならない。
「キスしてもいい? 答えないなら了承ってことで受け取るけど」
軽いノリで囁かれた台詞を一笑することも出来ない。混乱しているからだろうか。近づいてくる顔に酷く狼狽しながらも、避けることも出来ずに唇が重ねられた。触れているのはほんの僅かな一箇所。それでも熱が帯びて、もどかしい。
段々と深く、こじ開けられた口内を弄ばれて。
私はたまらずに腕を伸ばして成歩堂の頭を引き寄せた。
成歩堂がピクリと身動ぎするのが分かる。驚いてるのはこちらも同じだ。
噛み千切るほどに吸い寄せて、深く深く貪り続ける。やがて互いに息を切らせながら、ゆっくりと顔を離した。
「御剣? 今のって――」
「うるさいッ」
ニヤニヤと笑う成歩堂の顔を直視できない。
多分、私の顔は真っ赤になっているのだろう。顔と言わず、全身が火照って暑いくらいだ。
「うわ、その顔卑怯だぞ。御剣」
「帰れッ」
「うん、帰るよ」
あっさりと引き下がった成歩堂を訝しげに見やった。
ニコニコと笑っている顔が憎たらしい。
「答え、貰ったしさ」
「言ってないぞ」
「そのうち言ってもらうよ」
ひらひらと手を振りながら、入り口のドアへ歩いていく。
ガチャリ、とドアを開けながら、成歩堂はこちらへ振り返った。
「ゴチソウサマ」
これ以上ないほど緩みきった表情に腹が立って、私は目の前のトノサマンクッションを投げた。しかし成歩堂はドアの向こうに消えており、放物線を描いたクッションは間抜けた音を立てて床に落ちた。
※20の続き。時系列に書けない自分が憎い。ナル>>><ミツくらい。